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景行天皇けいこうてんのう

名前
  • 漢風諡号: 景行天皇(けいこうてんのう, けいかうてんわう)
  • 和風諡号: 大足彥忍代別天皇 【日本書紀】おおたらしひこおしろわけのすめらみこと, おほたらしおし)大足彦忍代別天皇
  • 大足彥尊 【日本書紀】おおたらしひこのみこと, おほたらし)大足彦尊
  • 大帶日子淤斯呂和氣命 【古事記】おおたらしひこおしろわけのみこと, おほたらしおし)大帯日子淤斯呂和気命
  • 大帶日子淤斯呂和氣天皇 【古事記】おおたらしひこおしろわけのすめらみこと, おほたらしおし)大帯日子淤斯呂和気天皇
  • 大帶日子天皇 【古事記】おおたらしひこのすめらみこと, おほたらし)大帯日子天皇
  • 大足彥命 【先代旧事本紀】おおたらしひこのみこと, おほたらし)大足彦命
  • 大足彥忍代別尊 【先代旧事本紀】おおたらしひこおしろわけのみこと, おほたらしおし)大足彦忍代別尊
  • 日本大足彥忍代別尊 【先代旧事本紀】やまとおおたらしひこおしろわけのみこと, やまおほたらしおし)日本大足彦忍代別尊
  • 大足彥忍別天皇 【日本書紀】おおたらしひこおしわけのすめらみこと, おほたらしおしわ)大足彦忍別天皇
  • 大足彥天皇 【日本書紀】おおたらしひこのすめらみこと, おほたらし)大足彦天皇
  • 纒向日代宮御宇天皇 【先代旧事本紀】むくやにあしたしししす
性別
男性
生年月日
垂仁天皇17年
没年月日
景行天皇60年11月7日
  • 垂仁天皇すいにんてんのう 【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】
  • 日葉酢媛命ひばすひめのみこと 【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】
先祖
  1. 垂仁天皇
    1. 崇神天皇
      1. 開化天皇
      2. 伊香色謎命
    2. 御間城姫
      1. 大彦命
      2. unknown
  2. 日葉酢媛命
    1. 丹波道主王
      1. 彦坐王
      2. 息長水依比売
    2. 丹波之河上之摩須郎女
配偶者
  • 皇后: 播磨稲日大郎姫はりまのいなひのおおいらつめ針間之伊那毘能大郎女はりまのいなびのおおいらつめ) 【日本書紀 巻第七 景行天皇二年三月戊辰条, 古事記 中巻 景行天皇段】
  • 妃→皇后: 八坂入媛命やさかいりひめのみこと八坂之入日売命やさかのいりひめのみこと) 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条, 古事記 中巻 景行天皇段】
  • 妃: 水歯郎媛みずはのいらつめ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】
  • 妃: 五十河媛いかわひめ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】
  • 妃: 高田媛たかたひめ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】
  • 妃: 日向髪長大田根ひむかのかみながおおたね 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】
  • 妃: 襲武媛そのたけひめ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】
  • 妃: 御刀媛みはかしひめ日向之美波迦斯毘売ひむかのみはかしびめ) 【日本書紀 巻第七 景行天皇十三年五月条, 古事記 中巻 景行天皇段】
  • 伊那毘能若郎女いなびのわかいらつめ稲日稚郎姫いなひのわかいらつめ) 【古事記 中巻 景行天皇段, 日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条 一云】
  • ・・・
    • 迦具漏比売命かぐろひめのみこと 【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 妃: 五十琴姫命いことひめのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇三十六年八月条】
  • 櫛角別王くしつのわけのみこ 【古事記 中巻 景行天皇段】【母:針間之伊那毘能大郎女はりまのいなびのおおいらつめ
  • 皇子: 大碓皇子おおうすのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇二年三月戊辰条】【母:播磨稲日大郎姫はりまのいなひのおおいらつめ
  • 皇子: 小碓尊おうすのみこと(ヤマトタケル) 【日本書紀 巻第七 景行天皇二年三月戊辰条】【母:播磨稲日大郎姫はりまのいなひのおおいらつめ
  • 皇子稚足彦尊わかたらしひこのみこと成務天皇せいむてんのう) 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇子: 五百城入彦皇子いおきいりひこのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇子: 忍之別皇子おしのわけのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇子: 稚倭根子皇子わかやまとねこのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇子: 大酢別皇子おおすわけのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇女: 渟熨斗皇女ぬのしのひめみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇女: 渟名城皇女ぬなきのひめみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇女: 五百城入姫皇女いおきいりひめのひめみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇女: 麛依姫皇女かごよりひめのひめみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇子: 五十狭城入彦皇子いさきいりひこのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇子: 吉備兄彦皇子きびえひこのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇女: 高城入姫皇女たかきいりひめのひめみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇女: 弟姫皇女おとひめのひめみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命やさかいりひめのみこと
  • 皇女: 五百野皇女いおののひめみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:水歯郎媛みずはのいらつめ
  • 皇子: 神櫛皇子かみくしのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:五十河媛いかわひめ
  • 皇子: 稲背入彦皇子いなせいりひこのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:五十河媛いかわひめ
  • 皇子: 武国凝別皇子たけくにこりわけのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:高田媛たかたひめ
  • 皇子: 日向襲津彦皇子ひむかのそつひこのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:日向髪長大田根ひむかのかみながおおたね
  • 皇子: 国乳別皇子くにちわけのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:襲武媛そのたけひめ
  • 皇子: 国凝別皇子くにこりわけのみこ 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇四年条】【母:襲武媛そのたけひめ
  • 皇子: 国背別皇子くにせわけのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:襲武媛そのたけひめ
  • 皇子: 豊戸別皇子とよとわけのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:襲武媛そのたけひめ
  • 皇子: 豊国別皇子とよくにわけのみこ 【日本書紀 巻第七 景行天皇十三年五月条】【母:御刀媛みはかしひめ
  • 皇子: 若木之入日子王わかきのいりひこのみこ 【古事記 中巻 景行天皇段】【母:不明】
  • 皇子: 真若王まわかのみこ 【古事記 中巻 景行天皇段】【母:伊那毘能若郎女いなびのわかいらつめ
  • 皇子: 日子人之大兄王ひこひとのおおえのみこ 【古事記 中巻 景行天皇段】【母:伊那毘能若郎女いなびのわかいらつめ
  • 皇女: 銀王しろかねのみこ 【古事記 中巻 景行天皇段】【母:不明】
  • 皇子: 五十功彦命いことひこのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇三十六年八月条】【母:五十琴姫命いことひめのみこと
  • 皇子: 豊門入彦命とよといりひこのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 稚屋彦命わかやひこのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 武国皇別命たけくにすめわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 天帯根命あめたらしねのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 大曽色別命おおそしこわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 五十河彦命いかわひこのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 石社別命いわさわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 大稲背別命おおいなせわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 不知来入彦命いさくいりひこのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 曽能目別命そのめわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 十市入彦命とおちいりひこのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 襲小橋別命そのおはしわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 色己焦別命しここりわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 熊津彦命くまつひこのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 息前彦人大兄水城命おきながのひこひとおおえのみずきのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 熊忍津彦命くまおしつひこのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 武弟別命たけおとわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 草木命くさきのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 兄彦命えひこのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 手事別命たことわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 大我門別命おおがとのわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 豊日別命とよひわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 三川宿禰命みかわのすくねのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 豊手別命とよてわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 倭宿禰命やまとのすくねのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 豊津彦命とよつひこのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 五百木根命いおきねのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 弟別命おとわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
  • 皇子: 大焦別命おおこりわけのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
称号・栄典
出来事
  • 垂仁天皇17年 【日本書紀 巻第七 景行天皇即位前紀 垂仁天皇三十七年条】

    垂仁天皇の第三皇子として生まれる。母は日葉酢媛命

    【日本書紀 巻第七 景行天皇即位前紀】
  • 身長が一丈二寸、脛の長さは四尺一寸あった。

    【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 垂仁天皇30年1月6日

    垂仁天皇五十瓊敷命・大足彦尊に「お前達の欲しい物を言ってみよ」と言った。
    兄王は弓矢を、弟王は皇位を望んだ。
    そこで天皇は「それぞれの願うままにしよう」と言って、弓矢を五十瓊敷命に賜り、大足彦尊には「お前は必ず皇位を継ぐように」と言った。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十年正月甲子条】
  • 垂仁天皇37年1月1日 【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十七年正月戊寅朔条】

    立太子。
    時に年二十一。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇即位前紀 垂仁天皇三十七年条】
  • 垂仁天皇99年7月14日

    垂仁天皇が崩御する。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇九十九年七月戊午朔条】
  • 景行天皇元年7月11日

    即位して天皇となる。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇元年七月己卯条】
    • 景行天皇元年7月

      皇后を尊んで皇太后とする。
      皇太后を尊んで太皇太后を追贈する。

      【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇元年年七月条】
  • 景行天皇2年3月3日

    播磨稲日大郎姫を立てて皇后とする。あるいは稲日稚郎姫という。
    后は二人の男子を生んだ。
    第一を大碓皇子という。
    第二を小碓尊という。
    ある書では、皇后は三人の男子を生み、その第三は稚倭根子皇子という。

    その大碓皇子小碓尊は同じ日に双子として生まれた。
    天皇は怪しんで(うす)に叫んだ。それで二王を名付けて大碓(おおうす)小碓(おうす)というのである。
    この小碓尊は、またの名は日本童男。または日本武尊という。
    幼い頃から雄々しい性格で、壮年になると容貌魁偉となり、身長は一丈、力は鼎を上げるほどであった。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇二年三月戊辰条】
  • 景行天皇3年2月1日

    紀伊国に行幸して神祇を祭祀しようと占った。すると不吉と出たので行幸を中止した。
    そこで屋主忍男武雄心命(あるいは武猪心という)を遣わして祭らせた。
    屋主忍男武雄心命阿備(あび)柏原(かしわはら)にて神祇を祭祀した。
    留まり住むこと九年。
    紀直の遠祖の菟道彦の娘の影媛を娶り、武内宿禰が生まれた。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇三年二月庚寅朔条】
  • 景行天皇4年2月11日

    天皇は美濃に行幸した。
    側の者が奏上して「この国に佳人が居ります。弟媛と申します。容姿端麗で、八坂入彦皇子の娘で御座います」と。
    天皇は自分の妃にしたいと思い、弟媛の家に行った。
    弟媛はこれを聞くと竹林に隠れた。
    天皇は弟媛が出てくるように計った。
    泳宮(くくりのみや)で鯉を池に放ち、朝夕見て遊んだ。
    弟媛はその鯉を見たいと思い、密かに池にやって来た。そこで天皇は引き留めた。
    弟媛は考え、夫婦の道は今も昔も同じである。しかし言いたいことも言えず不便である。そこで天皇に「私の性質は交わることを望みません。皇命の威厳に勝てず、大殿の中に入りましたが、快いものでは御座いません。また私の姿は美しくなく、長く後宮にお仕えすることは出来ません。ただ私には姉が居ります。名を八坂入媛と申します。容姿端麗で、志は貞潔で御座いますので、後宮に入れて頂きたく存じます」と言った。
    天皇は聞き入れて八坂入媛を召して妃とした。七男六女を生んだ。
    第一を稚足彦天皇という。
    第二を五百城入彦皇子という。
    第三を忍之別皇子という。
    第四を稚倭根子皇子という。
    第五を大酢別皇子という。
    第六を渟熨斗皇女という。
    第七を渟名城皇女という。
    第八を五百城入姫皇女という。
    第九を麛依姫皇女という。
    第十を五十狭城入彦皇子という。
    第十一を吉備兄彦皇子という。
    第十二を高城入姫皇女という。
    第十三を弟姫皇女という。

    また妃、三尾氏の磐城別の妹の水歯郎媛が生んだのは
    五百野皇女

    次の妃、五十河媛が生んだのは
    神櫛皇子
    稲背入彦皇子
    その兄の神櫛皇子は讃岐国造の始祖である。
    弟の稲背入彦皇子播磨別(はりまのわけ)の始祖である。

    次の妃、阿倍氏の木事の娘の高田媛が生んだのは
    武国凝別皇子。これは伊予国の御村別(みむらのわけ)の始祖である。

    次の妃、日向髪長大田根が生んだのは
    日向襲津彦皇子。これは阿牟君(あむのきみ)の始祖である。

    次の妃、襲武媛が生んだのは
    国乳別皇子国背別皇子。あるいは宮道別皇子という。
    豊戸別皇子
    その兄の国乳別皇子水沼別(みぬまのわけ)の始祖である。
    弟の豊戸別皇子火国別(ひのくにのわけ)の始祖である。

    天皇は男女合わせて八十の子がいる。

    日本武尊稚足彦天皇五百城入彦皇子を除いた七十余の子は、皆それぞれ国や郡に封じた。
    それで今にあたり、諸国の(わけ)というのは、その別王(わけのみこ)の子孫である。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】
  • 景行天皇4年2月

    天皇は美濃国造、名は神骨の娘、姉の名は兄遠子、妹の名は弟遠子。この二人が美人と聞き、大碓命を遣わして容姿を確認させた。
    しかし大碓命は密通して復命しなかった。それで大碓命を恨んだ。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月是月条】
    • 三野国造の祖神大根王の娘、名は兄比売弟比売の二人の容姿が美しいと聞き、御子の大碓命を遣わして召し上げさせた。
      しかし大碓命は召し上げることなく、自分がその二人の女性と結婚した。
      さらに他の女を探して、その女性の名を付けて偽り、天皇に献上した。
      天皇は別の女性だということを知り、常に訝しげな目をして、近寄らなかった。

      その大碓命兄比売を娶り、生まれた子は
      押黒之兄日子王。これは三野(みの)宇泥須和気(うねすわけ)の祖である。
      また弟比売を娶り、生まれた子は
      押黒弟日子王。これは牟宜都君(むげつのきみ)らの祖である。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 景行天皇4年11月1日

    美濃から帰還した。
    そして更に纒向(まきむく)に都を造った。これを日代宮(ひしろのみや)という。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四年十一月庚辰朔条】
    • 纒向之日代宮(まきむくのひしろのみや)にて天下を治めた。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 景行天皇12年7月

    熊襲(くまそ)が背いて朝貢しなかった。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十二年七月条】
  • 景行天皇12年8月15日

    筑紫に行幸する。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十二年八月己酉条】
  • 景行天皇12年9月5日

    周芳(すおう)娑麼(さば)に着いた。
    時に天皇は南を望み、群卿に詔して「南方に煙が多く立っている。必ず賊がいるだろう」と。
    即ち留まって、先ず多臣(おおのおみ)の祖の武諸木国前臣(くにさきのおみ)の祖の菟名手物部君(もののべのきみ)の祖の夏花を遣わして様子を探らせた。
    すると女人がいた。神夏磯媛という。その手下はとても多く、一国の魁帥(ひとごとのかみ)であった。
    天皇の使者が遣ってくると聞いて、磯津山(しつやま)の賢木を抜くと、上枝には八握剣(やつかのつるぎ)を懸け、中枝には八咫鏡(やたのかがみ)を懸け、下枝には八尺瓊(やさかのに)を懸け、また白旗を船首に立て、やって来て言うには「どうか兵を送らないで下さい。私の仲間に背くような者はいません。今すぐに帰順致します。ただ悪い賊たちがいます。一に鼻垂という賊は、みだりに君主の名を僭称して山谷に人を集め、菟狭(うさ)の川上にいます。二に耳垂という賊は、損なっては貪り、人民を掠めています。これは御木(みけ)の川上にいます。三に麻剥という賊は、徒党を集めて高羽(たかは)の川上にいます。四に土折猪折という賊は、緑野(みどりの)の川上に隠れ住み、山川の険しさを恃みに多くの民を掠めています。この四人のいる所はそれぞれ要害の地です。各々が仲間を集めて一所の長となっています。皆が皇命には従わないと言っています。どうか急ぎ討伐して下さい」と。
    そこで武諸木らは先ず麻剥を誘った。
    赤衣・褌や様々な珍品を送り、従わない三人もおびき出した。
    それぞれ仲間を連れてやって来たところを捕えて殺した。
    天皇は遂に筑紫に着いた。
    豊前国(とよのくにのみちのくちのくに)長峡県(ながおのあがた)に行って行宮(かりみや)を立てて住んだ。それでそこを名付けて(みやこ)という。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十二年九月戊辰条】
  • 景行天皇12年10月

    碩田国(おおきたのくに)に着いた。その地形は広大で美しかった。それで名を碩田(おおきた)という。
    速見邑(はやみのむら)に着いた。女がいた。名を速津媛という。一所の長である。
    天皇が来ると聞いて、自ら出迎えて言うには「この山に大きな石窟があります。鼠の石窟といい、二人の土蜘蛛が住んでいます。一に、二にといいます。また直入県(なおりのあがた)禰疑野(ねぎの)に、土蜘蛛が三人います。一に打猿、二に八田、三に国摩侶といいます。この五人は力が強くて仲間も多く、皆が皇命には従わないと言っています。また強いて呼ばれれば兵を起こして防ぐと言っています」と。
    天皇は好ましくないと思って進んで行かなかった。

    来田見邑(くたみのむら)に留まって、仮宮を立てて住んだ。
    そして群臣と議って言うには「多くの兵を動員して土蜘蛛を討とう。もし我が軍の勢いに恐れて山野に隠れれば、必ず後の憂いとなるだろう」と。
    海石榴(つばき)の木で造った椎を勇猛な兵に授け、山を穿ち、草を払い、石室の土蜘蛛を稲葉の川上で破って、その仲間をことごとく殺した。
    血は流れて踝にまで至った。それで時の人は海石榴の椎を作った所を海石榴市(つばきち)という。また血が流れた所を血田(ちた)という。
    また打猿を討つために禰疑山(ねぎのやま)を越えた。すると賊の矢が横の山から雨のように官軍の前に飛んできた。
    天皇は城原(きはら)に帰ると、占って川のほとりに陣をおき、兵を整えて、先ず八田を禰疑野で撃ち破った。
    打猿は勝てないと思いって降伏を申し出た。しかし許されず、みな自ら谷に身を投げて死んだ。
    天皇は始め賊を討つ時、柏峡(かしわお)の大野で、長さ六尺、幅三尺、厚さ一尺五寸の石があった。
    天皇は祈って「朕が土蜘蛛を滅ぼすことが出来るのであれば、この石を蹴って柏の葉のように舞い上がれ」と。
    そして石を蹴ると柏の葉のように大空に舞い上がった。それでその石を名付けて蹈石(ほみし)という。
    この時に祈った神は志我神直入物部神直入中臣神の三神である。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十二年十月条】
  • 景行天皇12年11月

    日向国(ひむかのくに)に至り、行宮(かりみや)を建てて住んだ。これを高屋宮(たかやのみや)という。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十二年十一月条】
  • 景行天皇12年12月5日

    熊襲(くまそ)を討つことを議った。
    天皇は群卿に詔して「朕が聞くところによれば、襲国(そのくに)厚鹿文迮鹿文という者がいる。この二人は熊襲の猛者で手下がとても多い。これを熊襲八十梟帥(くまそのやそたける)という。勢いが盛んで敵う者がいない。軍勢が少なければ賊は滅ぼせないが、軍勢が多ければ百姓にとって害となる。軍勢の力を借りずに、その国を平定出来ないものか」と。
    時に一人の臣が進み出て言うには「熊襲梟帥には二人の娘がおります。姉を市乾鹿文、妹を市鹿文と申します。容姿端麗で、心は雄々しい者で御座います。沢山の贈物で引き入れましょう。そして消息を伺わせて不意を突けば、刃を血で濡らすことなく賊を破れましょう」と。
    天皇はこれに同意すると、贈物を使い、二人の娘を欺いて召し入れた。
    天皇は市乾鹿文を偽って寵愛した。
    時に市乾鹿文が天皇に言うには「熊襲が服従しないことを憂えてはなりません。私に良い謀りごとがあるので、一人二人の兵を私にお付け下さい」と。
    そして家に帰ると、沢山の酒を準備して父に飲ませた。すると酔って寝た。
    市乾鹿文は密かに父の弓弦を断った。そして従ってきた一人の兵が熊襲梟帥を殺した。
    天皇は甚だしい不孝を憎み、市乾鹿文を殺した。
    妹の市鹿文には火国造を賜った。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十二年十二月丁酉条】
  • 景行天皇13年5月

    襲国(そのくに)を平定して、高屋宮(たかやのみや)に住んだ。六年滞在した。
    その国に佳人があり、御刀媛という。即ち召して妃とし、生まれたのは
    豊国別皇子。これは日向国造の始祖である。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十三年五月条】
  • 景行天皇17年3月12日

    子湯県(こゆのあがた)に行幸して、丹裳小野(にものおの)に遊んだ。
    時に東を望んで、側の者に言うには「この国は真直に日の出る方に向いている」と。
    それでその国を名付けて日向(ひむか)という。
    この日に野中の大石にのぼり、都を思い出して歌った。

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    これを思邦歌(くにしのびうた)という。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十七年三月己酉条】
  • 景行天皇18年3月

    天皇は(みやこ)に向かうため、筑紫国を巡幸して、初めて夷守(ひなもり)に至った。
    この時、石瀬河(いわせのかわ)のほとりに人々が集まっていた。
    天皇は遥遠くを眺め、側の者に詔して「あの集まっている者は誰だ。もしや賊か」と。
    そして兄夷守弟夷守を遣わして確認させた。
    弟夷守が帰って来て言うには「諸県君泉媛大御食(おおみあえ)を献上しようとおります。それでその仲間も集まっております」と。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年三月条】
  • 景行天皇18年4月3日

    熊県(くまのあがた)に至る。
    そこには熊津彦(くまつひこ)という二人の兄弟がいた。
    天皇は先ず兄熊を呼んだ。すると使いに従ってやって来た。
    弟熊は呼んでも来なかった。それで兵を遣わして誅した。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年四月甲子条】
  • 景行天皇18年4月11日

    海路から葦北(あしきた)の小島に泊まり食事をした。
    時に山部阿弭古(やまべのあびこ)の祖の小左に命じて冷水を献上させた。
    しかしこの時島には水が無く、為す術を知らずに天を仰いで天神地祗に祈った。
    すると忽ちに崖の傍から冷泉が涌き出てきた。それを汲んで献上した。それでその島を水島(みずしま)という。その泉は今も水島の崖にある。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年四月壬申条】
  • 景行天皇18年5月1日

    葦北(あしきた)から船出して火国(ひのくに)に着いた。
    日没になり、暗くて着岸出来ずにいると、遥かに火の光が見えた。天皇は船頭に「真直ぐに火のもとへ向かえ」と詔した。
    火のもとへ向うと着岸することが出来た。
    天皇がその火の光に向って「何という邑か」と尋ねると、国人が「ここは八代県(やつしろのあがた)豊村(とよのむら)です」と答えた。
    またその火の光に「これは誰の火か」と尋ねた。
    しかしその主は分からず、人の火ではないことを知った。それでこの国を名付けて火国というのである。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年五月壬辰朔条】
  • 景行天皇18年6月3日

    高来県(たかくのあがた)から玉杵名邑(たまきなのむら)に渡った。その地の土蜘蛛津頬を殺した。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年六月癸亥条】
  • 景行天皇18年6月16日

    阿蘇国に着いた。その国は野が広く遠くまで続き、人家が見えなかった。
    天皇は「この国に人はいるか」と言った。
    時に阿蘇都彦阿蘇都媛の二神が現れた。
    忽ちに人の姿になり、「私たち二人がいます。どうして人がいないことがありましょうか」と言った。
    それでその国を名付けて阿蘇(あそ)という。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年六月丙子条】
  • 景行天皇18年7月4日

    筑紫後国(つくしのくにのみちのしりのくに)御木(みけ)に至り、高田行宮(たかたのかりみや)に入った。
    樹が倒れていた。長さは九百七十丈。多くの役人がその樹を踏んで往来した。
    時の人は歌を詠んだ。

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    天皇は「これは何の樹か」と問うた。
    一人の老人が言うには「この樹は歴木(くぬぎ)といいます。むかし倒れる前は、朝日の光に当たって杵島山(きしまのやま)を隠し、また夕日の光に当たって阿蘇山(あそのやま)を覆いました」と。
    天皇が言うには「この樹は神木である。それでこの国を名付けて御木国(みけのくに)とする」と。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年七月甲午条】
  • 景行天皇18年7月7日

    八女県(やめのあがた)に至り、藤山(ふじやま)を越えて、南方の粟岬(あわのさき)を望んだ。
    詔して「その山の峰は幾重にも重なってとても美しい。もしや神がその山にいらっしゃるのか」と。
    時に水沼県主猿大海が奏上して「女神がいらっしゃいます。名は八女津媛で御座います。常に山の中にいらっしゃいます」と。
    八女国(やめのくに)の名はこれにより起こった。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年七月丁酉条】
  • 景行天皇18年8月

    的邑(いくはのむら)に着いて食事をした。
    この日、膳夫(かしわで)らが(うき)を忘れた。それで時の人はその盞を忘れたところを名付けて浮羽(うきは)といった。今は訛って(いくは)という。昔、筑紫では盞を俗に浮羽といった。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年八月条】
  • 景行天皇19年9月20日

    日向(ひむか)から還幸する。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇十九年九月癸卯条】
  • 景行天皇20年2月4日

    五百野皇女を遣わして、天照大神を祭らせる。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇二十年二月甲申条】
  • 景行天皇25年7月3日

    武内宿禰を遣わして、北陸(くぬがのみち)及び東方の諸国の地形、また百姓の有様を調査させる。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇二十五年七月壬午条】
  • 景行天皇27年2月12日

    武内宿禰が東国から帰還し、奏上して「東夷にの中に日高見国(ひたかみのくに)が御座います。その国の人は、男女共に髪を椎のように結い、体に入れ墨をしております。人々は勇敢で、これを全て蝦夷(えみし)と申します。また土地は肥沃で広大で御座います。攻略するのが良いと存じます」と。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇二十七年二月壬子条】
  • 景行天皇27年8月

    熊襲(くまそ)がまた反乱して辺境を侵した。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇二十七年八月条】
  • 景行天皇27年10月13日

    日本武尊を派遣して、熊襲(くまそ)を討たせた。
    時に年十六。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇二十七年十月己酉条】
    • 天皇は小碓命に詔して「なぜお前の兄は朝夕の大御食に出て参らないのか。お前から優しく教え諭しなさい」と。
      この詔の後、五日たっても出てこなかった。
      そこで天皇は小碓命に尋ねて「なぜお前の兄は久しく出て参らないのか。もしやまだ教えてないのではないか」と。
      答えて「すでに教え諭しました」と。
      また尋ねて「どのように教え諭したか」と。
      答えて「明け方、厠に入ったところを捕らえて掴み潰し、手足を引きもいで、(こも)に包んで投げ棄てました」と。
      天皇はその御子の荒々しい性格を恐れ、「西方に熊曽建(くまそたける)が二人いる。この服従しない無礼な者どもである。その者どもを討ち取りなさい」と詔して遣わした。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 景行天皇28年2月1日

    日本武尊熊襲(くまそ)平定の様子を奏上して「天皇の御霊力に頼り、兵を挙げて、ひたすらに熊襲の首領を殺してその国を平らげました。これによって西国は鎮まり、百姓も事無きを得ました。ただ吉備の穴済(あなのわたり)の神と、難波の柏済(かしわのわたり)の神には害する心があり、毒気を放って通行人を苦しめて悪人の巣窟となっておりました。それでその悪神を殺して水陸の路を開きました」と。
    天皇は日本武の功を褒めて愛した。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇二十八年二月乙丑朔条】
  • 景行天皇36年8月

    物部胆咋宿禰の娘の五十琴姫命を妃とする。生まれたのは
    五十功彦命

    【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇三十六年八月条】
  • 景行天皇40年6月

    東夷が多く叛いて辺境が動揺する。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年六月条】
  • 景行天皇40年7月16日

    天皇は群卿に詔して「東国が不安定で暴れる神が多くいる。また蝦夷が反乱して、しばしば人民が略奪にあっている。誰を遣わして平定させるべきか」と。
    群臣は誰を派遣すべきか判断出来なかったが、日本武尊が奏上して「私が先に西征させて頂きました。この役は大碓皇子が良いでしょう」と。
    時に大碓皇子は愕然として草の中に逃げ隠れた。使者を遣わして連行した。
    天皇が責めて言うには「お前が望まないものを、なぜ無理強いしようか。賊に向い合いもせずに、こんなにも恐れるとは」と。
    そして美濃に封じて、その封地に行かせた。これが身毛津君(むけつのきみ)守君(もりのきみ)、凡そ二族の始祖である。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年七月戊戌条】
    • 天皇は倭建命に詔して「東方十二国の荒ぶる神や、服従しない人々を平定せよ」と。
      吉備臣(きびのおみ)らの祖、名は御鉏友耳建日子を副えて遣わすときに、柊の八尋矛を授けた。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 景行天皇40年10月2日

    日本武尊が出発する。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年十月癸丑条】
  • (景行天皇40年10月2日 ~ 景行天皇43年)

    日本武尊吉備武彦を遣わし、天皇に奏上して「私は天朝の命を承り、遠く東夷を討伐致しました。神恩を被り、皇威に頼りまして、叛く者は罪に伏し、荒ぶる神も自ら従いました。そこで(よろい)を巻き、(ほこ)を納めて、心安らいで帰還致しまして、何れの日、何れの時に復命しようかと思っておりました。しかし天命は忽ちに至り、余命幾ばくも無く、独り荒野に臥しております。誰に語ることも御座いません。身の亡ぶことなど惜しみません。ただ残念なのは、お仕え奉ることが適わなくなることで御座います」と。
    そして能褒野でじた。時に年三十。

    天皇はこれを聞くと安らかに眠れず、食事を取っても味を感じず、昼夜むせび泣き、胸を打って悲しんだ。
    そして大いに歎いて言うには「我が子小碓王よ。かつて熊襲(くまそ)が叛いた日、まだ総角(あげまき)もせぬのに、戦いに長くを費やし、また傍らで朕を補佐してくれた。しかし東夷の騒動では討伐する者が現れず、愛みを忍んで賊の地に入らせたのだ。一日も忘れたことは無い。朝夕落ち着かず、ただひたすらに帰る日を待っていた。何の禍か。何の罪か。不意に愛する我が子を失ってしまった。今後は誰と鴻業を治めれば良いのか」と。
    そして群卿に詔し、百寮に命じて、伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ)に葬った。

    時に日本武尊は白鳥になって陵を出ると、(やまと)国を指して飛んでいった。
    群臣らがその棺を開いてみると、衣だけが空しく残り、屍は無かった。
    そこで使者を遣わして白鳥を追わせた。
    すると倭の琴弾原(ことひきのはら)に留まった。そこでその地に陵を造った。
    白鳥は更に飛んで河内の旧市邑(ふるいちのむら)に留まった。またその地に陵を造った。
    それで時の人はこの三つの陵を名付けて白鳥陵(しらとりのみささぎ)という。
    遂に高く翔んで天に上った。
    ただ衣冠だけを葬り、功名を伝えるために武部(たけるべ)を定めた。

    この年、天皇践祚四十三年である。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】
    • その国から飛んで翔けて行き、河内国(こうちのくに)志幾(しき)に留まった。
      それでその地に陵を造って鎮座させた。それでその御陵を名付けて白鳥御陵(しらとりのみはか)という。
      しかし、またその地からさらに天を翔けて飛んで行った。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 景行天皇51年1月7日

    群卿を招いて宴を催し、何日も続いた。しかし皇子稚足彦尊武内宿禰は宴には出席しなかった。
    天皇は召してそのわけを尋ねた。答えて「宴楽の日は群卿百寮が遊戯に心が傾き、国家を忘れます。もし狂った者が現れて、隙を伺う心配が御座います。それで門下で非常に備えているので御座います」と。
    天皇は「全くもってその通りである」と言って特に目をかけた。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年正月戊子条】
  • 景行天皇51年8月4日

    稚足彦尊を立てて皇太子とする。

    この日、武内宿禰に命じて棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)とする。

    日本武尊が佩いていた草薙横刀(くさなぎのつるぎ)は、今は尾張国の年魚市郡(あゆちのこおり)熱田社(あつたのみやしろ)にある。
    この神宮に献上された蝦夷らは、昼夜うるさぐ騒ぎ、出入りも無礼だった。
    時に倭姫命が言うには「この蝦夷らは神宮に近づけてはならない」と。そして朝廷に進上した。
    そして御諸山(みもろのやま)の傍に置いた。時も経ず内に神山の樹を伐ったり、里で叫んで人民を脅かした。
    天皇はこれを聞き、群卿に詔して「その神山の傍に置いた蝦夷は、獣の心があって中国(なかつくに)には住むのは難しい。よってその願い通りに畿外に住まわせよ」と。
    これが今の播磨・讃岐・伊勢・安芸・阿波、凡そ五国の佐伯部(さえきべ)の祖である。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】
  • 景行天皇52年5月4日

    皇后播磨太郎姫じる。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十二年五月丁未条】
  • 景行天皇52年7月7日

    八坂入媛命を立てて皇后とする。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十二年七月己酉条】
  • 景行天皇53年8月1日

    天皇が群卿に詔して「朕の愛した子を思い偲ぶことは、いつの日に止むのか。小碓王が平定した国々を巡幸したいと思う」と。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十三年八月丁卯朔条】
  • 景行天皇53年8月

    伊勢に行幸して、そこから東海(うみつみち)に入る。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十三年八月是月条】
  • 景行天皇53年10月

    上総国(かみつふさのくに)に至り、海路に従って淡水門(あわのみなと)を渡った。
    この時に覚賀鳥(かくかのとり)の声が聞こえた。
    その鳥の姿を見たいと思って海に出た。すると白蛤を得た。
    膳臣(かしわでのおみ)の遠祖、名は磐鹿六鴈が、蒲を襷にかけて白蛤を膾に造って奉った。
    それで六鴈臣の功を褒めて、膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜った。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十三年十月条】
  • 景行天皇53年12月

    東国から帰って伊勢に居す。これを綺宮(かにはたのみや)という。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十三年十二月条】
  • 景行天皇54年9月19日

    伊勢から(やまと)に帰り纒向宮(まきむくのみや)に居す。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十四年九月己酉条】
  • 景行天皇55年2月5日

    彦狭島王を東山道十五国の都督に任じた。これは豊城命の孫である。
    しかし春日(かすが)穴咋邑(あなくいのむら)に着いた時に、病に臥して薨じた。
    この時に東国の百姓は、その王が到着出来なかったことを悲しんで、密かに王の屍を盗んで上野国(かみつけののくに)に葬った。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十五年二月壬辰条】
  • 景行天皇56年8月

    御諸別王に詔して「お前の父彦狭島王は任地に着く前に薨じてしまった。だからお前は専ら東国を治めよ」と。
    御諸別王は天皇の命を承り、父の業を成すために、そこに行って早速善政を敷いた。
    時に蝦夷(えみし)が騒いだので挙兵して討った。
    蝦夷の首領の足振辺大羽振辺遠津闇男辺らがやって来て叩頭した。罪を認め、全ての領地を献上した。
    そこで降伏した者を許し、降伏しない者は誅した。
    これで東方は久しく事なきを得た。その子孫は今も東国にいる。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十六年八月条】
  • 景行天皇57年9月

    坂手池(さかてのいけ)を造り、竹をその堤の上に植える。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十七年九月条】
  • 景行天皇57年10月

    諸国に令して田部(たべ)屯倉(みやけ)を設ける。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十七年十月条】
    • 田部(たべ)・東の淡水門(あわのみなと)(かしわで)大伴部(おおともべ)(やまと)屯家(みやけ)を定めた。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 景行天皇58年2月11日

    近江国に行幸して、志賀に住むこと三年。これを高穴穂宮(たかあなほのみや)という。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十八年二月辛亥条】
  • 景行天皇60年11月7日

    天皇は高穴穂宮(たかあなほのみや)で崩じた。
    時に年百六歳。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇六十年十一月辛卯条】
    • 御年百三十七歳。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 成務天皇2年11月10日

    倭国(やまとのくに)山辺道上陵(やまのへのみちのえのみささぎ)に葬られる。

    【日本書紀 巻第七 成務天皇二年十一月壬午条】
    • 御陵は山辺之道上(やまのべのみちのえ)にある。

      【古事記 中巻 景行天皇段】