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菟道稚郎子皇子うじのわかいらつこのみこ

名前
  • 菟道稚郞子皇子 【日本書紀】うじのわかいらつこのみこ, うぢわかいらつ)菟道稚郎子皇子
  • 菟道稚郞子 【日本書紀】うじのわかいらつこ, うぢわかいらつ)菟道稚郎子
  • 宇遲能和紀郞子 【古事記】うじのわきいらつこ, うぢいらつ)宇遅能和紀郎子
  • 菟道稚郞子皇子尊 【先代旧事本紀】うじのわかいらつこのみこのみこと, うぢわかいらつ)菟道稚郎子皇子尊
性別
男性
生年月日
( ~ 応神天皇15年8月6日)
没年月日
仁徳天皇元年
  • 応神天皇おうじんてんのう 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条, 先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 応神天皇二年四月壬子条】
  • 宮主宅媛みやぬしやかひめ 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】
    • 香室媛かむろひめ物部山無媛もののべのやまなしひめ) 【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 応神天皇二年四月壬子条】
先祖
  1. 応神天皇
    1. 仲哀天皇
      1. 日本武尊
      2. 両道入姫命
    2. 神功皇后
      1. 気長宿禰王
      2. 葛城高顙媛
  2. 宮主宅媛
    1. 日触使主
    2. unknown
出来事
  • 応神天皇の皇子として生まれる。母は宮主宅媛

    【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】
    • ある時、応神天皇近淡海国(ちかつおうみのくに)に越えて行幸する時に、宇遅野(うじの)のあたりに立ち、葛野(かずの)を望んで歌を詠んだ。

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      それで木幡村(こはたのむら)に着いたとき、美しい少女にその辻で出会った。
      そして天皇がその少女に「お前は誰の子か」と問うと、「丸邇之比布礼能意富美の娘で、名を宮主矢河枝比売と申します」と答えた。天皇はその少女に「私は明日帰るときに、お前の家に立ち寄ろうと思う」と言った。

      それで矢河枝比売は、このことを詳しく父に話した。
      この父は「その方は天皇でいらっしゃる。恐れ多いことだ。我が子よ。お仕え申し上げなさい」と言って、その家を厳かに飾って待った。
      翌日行幸した。
      それで食事を差し出すときに、娘の矢河枝比売酒盞(さかずき)を持たせて酒を献上させた。
      天皇はその大酒盞を持たせたままで歌を詠んだ。

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      こうして結婚して生まれた御子が宇遅能和紀郎子である。

      【古事記 中巻 応神天皇段】
  • 応神天皇15年8月6日

    百済(くだら)からやってきた阿直岐を師とする。

    【日本書紀 巻第十 応神天皇十五年八月丁卯条】
  • 応神天皇16年2月

    王仁を師として諸々の典籍を習った。

    【日本書紀 巻第十 応神天皇十六年二月条】
  • 応神天皇28年9月

    高麗(こま)王が使者を遣わして朝貢した。
    その上表文に、「高麗の王、日本国に教える」とあった。
    太子菟道稚郎子はその表を読んで怒り、高麗の使者を責めた。
    表が無礼であるため、その表を破り捨てた。

    【日本書紀 巻第十 応神天皇二十八年九月条】
  • 応神天皇40年1月8日

    応神天皇大山守命大鷦鷯尊を呼んで「お前達は自分の子は可愛いか」と問うと、「とても可愛いです」と答えた。
    また、「年が大きい子と小さい子ではどちらが可愛いか」と問うと、大山守命は、「大きい子の方が可愛いです」と答えた。天皇は悦んでいない様子だった。
    大鷦鷯尊は天皇の様子を察して、「大きい子は年を重ねて一人前になっておりますので、不安はありません。ただ小さい子は、一人前になれるか分かりませんので、とても可愛そうです」と答えた。天皇は大いに悦んで、「お前の言葉は、我が心と同じである」と言った。

    このとき天皇は常に菟道稚郎子を立てて太子にしたいと思っていた。
    それで二皇子の心を知りたいと思ったて、この問いを発したのであり、大山守命の答えを悦ばなかったのである。

    【日本書紀 巻第十 応神天皇四十年正月戊申条】
    • 天皇は大山守命大雀命に「お前たちは年上の子と年下の子のどちらが愛しいか」と尋ねた。
      この問いは、天皇が宇遅能和紀郎子に天下を治めさせようとする心があったためである。
      そこで大山守命は「年上がかわいいです」と言った。
      次に大雀命は天皇の心中を察して、「年上の子はすでに成人しており、心配はありませんが、年下の子はまだ成人しておりませんので、こちらが愛しいです」と言った。
      すると天皇は「(さざぎ)よ。お前の言葉は、我が思いと同じである」と言った。

      【古事記 中巻 応神天皇段】
  • 応神天皇40年1月24日

    菟道稚郎子が日嗣の御子となる。

    天皇はその日に大山守命に任じて山・川・林・野を掌らせ、大鷦鷯尊を太子の補佐として国事を任せた。

    【日本書紀 巻第十 応神天皇四十年正月甲子条】
    • 天皇は「大山守命は、山と海を管理しなさい。大雀命は、この国の政治を執行して奏上しなさい。宇遅能和紀郎子は皇位を継承しなさい」と詔して皇子たちの任を分けた。

      【古事記 中巻 応神天皇段】
  • 応神天皇41年2月15日

    応神天皇が崩御する。

    【日本書紀 巻第十 応神天皇四十一年二月戊申条】
  • 応神天皇41年2月(15日 ~ 30日)

    太子菟道稚郎子は位を大鷦鷯尊に譲って未だ即位していなかった。
    そして大鷦鷯尊に言うには「天下に君として万民を治める者は、覆うことは天の如く、受け入れることは地の如し。上に喜ぶ心があって人民を使えば、人民は欣然として、天下は安らかになります。私は弟です。文献にも見当たらず、なぜ敢えて位を継いで、天業を統べることが出来ましょうか。大王(きみ)のお姿は岐嶷(いこよか)です。仁孝も遠くにまで聞こえ、年齢もまた上です。天下の君となるのに充分です。先帝が私を太子に立てたのは、才ありということではなく、ただ愛されたからです。また宗廟社稷を奉ることは重い事です。私は不肖で及びません。兄は上に、弟は下に、聖者は君となり、愚者は臣となるのは、古今の常典です。どうか王は疑わずに、即位してください。私は臣としてお助けするのみです」と。
    大鷦鷯尊が答えて「先皇は『皇位は一日でも空しくしてはならない』とおっしゃった。それであらかじめ明徳の人をお選びになり、王を太子にお立てになられた。幸いの(みつぎ)をもって民をこれにお授けになられた。その寵愛のしるしを尊んで、国中に聞こえるようになされた。私は不賢であるが、先帝の命を棄てて、たやすく弟王の願いに従うことは出来ない」と言って、固く辞して受け入れず、互いに譲り合った。

    この時に額田大中彦皇子(やまと)屯田(みた)屯倉(みやけ)を支配しようとして、その屯田の司で出雲臣(いずものおみ)の祖淤宇宿禰に「この屯田はもとより山守の地である。これからは私が治める。お前が司ることはない」と言った。
    淤宇宿禰は太子に報告した。
    太子は「大鷦鷯尊に申し上げよ」と言った。
    それで淤宇宿禰大鷦鷯尊に「私がお預かりしていた屯田は、大中彦皇子が妨げられて治めることが出来ません」と言った。
    大鷦鷯尊倭直(やまとのあたい)の祖麻呂に「倭の屯田はもとより山守の地というが、これはどうか」と尋ねると、「私は存じ上げませんが、弟の吾子籠が存じ上げております」と答えた。

    この時、吾子籠韓国(からくに)に遣わされていて、まだ帰還していなかった。
    そこで大鷦鷯尊淤宇に言うには「お前は自ら韓国に行って、吾子籠を連れてきなさい。昼夜兼行で急ぐように」と。
    そして淡路の海人八十人を水手とした。
    淤宇は韓国に行って吾子籠を連れて帰った。
    そして倭の屯田について尋ねると、答えて「伝え聞きますには、纒向玉城宮御宇天皇の御世に、太子大足彦尊に仰せられて、倭の屯田をお定めになられました。この時の勅旨は『およそ倭の屯田は、時の帝皇の屯田である。その帝皇の子といえども、天下を治める者でなければ司ることは出来ない』といいます。これを山守の地というのは間違いでございます」と。
    大鷦鷯尊吾子籠額田大中彦皇子のもとに遣わして、このことを知らせた。
    大中彦皇子は返答しなかった。
    その悪さを知ったが、許して罪に問わなかった。


    その後、大山守皇子は先帝が太子に立てなかったことを常に恨んでいたが、このことで重ねて怨みを持った
    そして謀を企てて「私は太子を殺して帝位に登る」と言った。

    大鷦鷯尊はあらかじめその謀を聞き、太子に密かに告げると兵を備えて守らせた。
    時に太子は兵を備えて待っていた。
    大山守皇子はその兵の備えを知らずに、数百の兵士を率いて夜半に出発した。
    明け方に菟道(うじ)について河を渡った。
    時に太子は粗末な服を着て、楫を取って密かに渡し守にまじって、大山守皇子を船に乗せて渡した。
    河の中ほどで、渡し守に命じて船を傾けさせると、大山守皇子は河に落ちた。
    さらに浮き流れつつ歌った。

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    しかし伏兵が多くいて岸につくことが出来ず、遂に沈んで死んだ。

    その屍を探させると、考羅済(かわらのわたり)に浮かんだ。
    時に太子はその屍を見て歌を詠んだ。

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    そして那羅山(ならのやま)に葬った。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇即位前紀 応神天皇四十一年二月条】
    • 天皇崩御の後、大雀命は天皇の命に従って、天下を宇遅能和紀郎子に譲った。
      しかし大山守命は天皇の命を違え、なお天下を得たいと思って、その弟皇子を殺そうと思った。そして密かに武器を用意して攻めようとした。

      大雀命は、その兄が武器を用意していることを聞くと、すぐに使者を遣わして宇遅能和紀郎子に知らせた。
      それで驚いて、兵を河辺に伏せた。またその山の上に荒絹で作った幕を張り、偽って舎人(とねり)を王に仕立て上げて、目につくように呉床(あぐら)に坐らせた。
      百官が恭しく往来する様子は、王子のいる所のようだった。

      さらにその兄王が河を渡る時の為に、船の櫓や櫂を備えて飾り、さな葛の根を()いて、その汁の粘液をその船の中の簀の子に塗って、踏めば倒れるように仕掛けた。

      その王子は布の衣と(はかま)を身につけると、賤しい人の姿になって、楫を執って船に立った。
      その兄王は、兵士を隠し伏せて、衣の下に鎧を着た。
      河辺に着いて、まさに船に乗ろうとした時、その飾り立てた所を見て弟王がその呉床にいると思い、楫を執って船に立っていることと知らずに、その楫とりに、「この山に凶暴な大猪がいると聞いている。私はその猪を討ち取りたいと思う。その猪を討ち取ることができるだろうか」と尋ねた。楫とりは「不可能でしょう」と答えた。
      また「それはなぜか」と尋ねると、答えて「機会があるたびに行ってみましたが、討ち取れませんでした。それで不可能と申すのです」と。

      河の中ほどに渡った時、その船を傾けて水中に落とし入れた。
      すると浮かび出て、水の流れに従って流れ下った。そして流れながら歌った。

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      ここで河辺に伏せ隠れていた兵が、あちこちから一斉に姿を現して、弓に矢をつがえて追い流した。
      そして訶和羅(かわら)の崎に流れ着いたところで沈んだ。

      そこで鉤でその沈んだ所を探すと、その衣の中の鎧に引っかかって「かわら」と鳴った。それでその地を名付けて訶和羅前(かわらのさき)という。

      屍を鉤で引き上げるとき、弟王が歌を詠んだ。

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      それでその大山守命の屍は那良山(ならやま)に葬った。

      【古事記 中巻 応神天皇段】
  • 仁徳天皇元年

    太子菟道稚郎子は宮室(おおみや)を菟道に建てて住んだが、猶も大鷦鷯尊に位を譲って久しく即位しなかった。
    皇位が空いて既に三年が経った。

    時に海人(あま)が鮮魚を菟道宮に献上した。
    太子は海人に「私は天皇ではない」と言って返して難波(なにわ)に献上。
    大鷦鷯尊はまた返して菟道に献上させた。
    こうして海人の献上品は往来の間に腐ってしまったので、あらためて鮮魚を取って献上したが、以前のように譲り合った。
    鮮魚はまた腐り、海人は往来に苦しんで魚を棄てて泣いた。
    それで諺に「海人であろうか。己の物で泣くとは」というのは、これがもとである。

    太子は「私は兄王の志を変えられないことを知った。どうして長生きして、天下を煩わすことがあろうか」と言って自ら死んだ。

    大鷦鷯尊は太子が薨じたことを聞くと、驚いて難波から急いで菟道宮にやって来た。
    太子が薨じて三日が経っていた。
    大鷦鷯尊は胸を打って泣き叫び、なす術を知らなかった。
    髪を解いて屍に跨って「我が弟の皇子よ」と三度呼んだ。
    すると瞬く間に生き返り、自ら起き上がった。
    大鷦鷯尊は太子に語って「悲しい。惜しい。どうして自ら逝こうとするのですか。もし死を知られたら、先帝は私に何とおっしゃるでしょう」と。
    太子が兄王に言うには「天命なのです。誰も止めることは出来ません。もし天皇の御所に参ることがございましたら、兄王が聖で、しばしば譲られましたことを申し上げます。しかし聖王は我が死をお聞きになり、遠路を急ぎお出で下さいました。御礼を申し上げないことなど有り得ません」と。
    そして同母妹の八田皇女を奉り、「お召しなるには不足と存じますが、どうか後宮の数に入れて頂きたく存じます」と言うと、棺に伏して薨じた。
    大鷦鷯尊は白服を着て、悲しみ慟哭すること甚だしかった。
    そして菟道山上(うじのやまのえ)に葬った。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇即位前紀 応神天皇四十一年二月条】
    • 大雀命と宇遅能和紀郎子の二柱が皇位を譲り合っている間に、海人が大贄を献上した。
      そこではこれを辞してに献上させた。
      弟はこれを辞して兄に献上させた。
      互いに譲り合っている間に、多くの日数が経った。
      譲り合いは一度や二度ではないので、海人は往来ですっかり疲れて泣き出してしまった。それで諺に「海人は、己の物によって泣く」というのである。
      しかし宇遅能和紀郎子は早くにじてしまった。
      それで大雀命が天下を治めた。

      【古事記 中巻 応神天皇段】